『漏水』

本当の雑記

5/25、家に帰ると部屋が水浸しになっていた。
ドアを開けた瞬間、水が垂れてきた。
廊下まで一気に進むと、幸いにもキッチンマットが水を吸ってくれていた。
「廊下はあまり濡れていないな。」
もしキッチンマットがなかったら、床の見切りが無かったら居間にまで広がっていたのかもしれない。
もしものための雑巾を在庫していたので、5枚使って3時間かけて掃除を行った。
冷蔵庫を移動させると、Gが仰向けになっていた。
「へへ、塩素と食器用洗剤で溺れ死んだのか(笑)」

昨日の夜から電話が鳴っていた。
「無職の俺に誰が何の用なんだ」
私は電話に出なかった。心の奥では何となく気づいていた気がする。
気が付くと、留守電が5件溜まっていた。
こういう時の留守電設定は便利でいい。
私は人見知りで、とても面倒くさがりだ。
今は数少ない友達との時間を大切にしたい。
「今日泊まっていい?」
一緒に昔流行ったアニメを見て盛り上がった。

夢を見た。友達が何か俺に語り掛けている。
「実は俺さ、フィリピンとのハーフで、それでこんなガタイなんだよ。
今まで話したことなかったっけ?」
「知らないよ。今までそんなこと」
聞いたことなかったわ。
目が覚めると、友達が座りながらこっちを見ている。
「何を聞いたことなかったの?(笑)」
俺の寝言を笑いながら朝飯を一緒に作った。

また電話が鳴っている。
「あれ、電話鳴ってるよ。出ないでいいの?」
いいよ。今は友達との時間を大切にしたい。
アニメ最終話を一緒に見ながら、私は最後の有意義な時間を過ごした。

お昼になった。
「そろそろ帰るわ、今度は俺ん家に来るか?何もないけどね。」
身支度をし、最後に友達のピアノを拝借した。
「ありがとうね。今は時間がたっぷりあるからピアノの練習もしたくて」
AIウイルスの感染拡大が続くなかで政府は4月16日、特別措置法に基づく緊急事態宣言を全都道府県に拡大した。
今はライブも中止になっているし、練習にも使ってないならと、
前々から借りられないか頼み込んでいた。
「7万するから壊すなよ?」
「その時は新しいのを買うよ」

友達の家を出て、私はスマホとイヤホンを取り出し、音楽を聴いた。
最近ようやくMr.Dandysにハマり、今は「みるく」を聴いている。
ホーム画面に着信履歴が目に入ったが、まだ見たくない。私はそんなすぐに現実を受け止められる器は持っていない。

改札に入り、ホームで電車が来るのを待っている。
「みるくってこういう意味だったんだ。」
電車が来るまで私はこの音楽の意味を調べていたが、全てを知る前に電車が来てしまった。

閉鎖された空間。AIウイルスの影響なのか、電車の中はまだ人が疎らである。
ピアノを背負っていたからか、私は真っ先に電車の三角コーナーに向かった。
色んな人と目が合った。
こんな時期にライブかよ。なんで座席が空いてるのに立ってるの?
色んな声が勝手に聞こえてくる。これはただの妄想だ。
そろそろ現実と向き合わなければいけない。

私はスマホをもう一度取り出した。
電車は地下に入り、景色は一気に暗くなった。
留守電が7件になっていた。どれから聞こう。
時系列的に画面をタップしてみた。
「もしもし。私、AIハウス管理会社の川口と申します。こちら、田中様の携帯でよろしかったでしょうか。お部屋のことに関してお電話いたしました。また改めてこちらかけおかけいたします。失礼いたします。」
ああそいえば、ハンバーガーマンのコントで丁寧語に関して指摘するコントがあったな。
”バナナシェイク”
いやそこじゃねえわ。

もうわかっていた。一気に全ての留守電を聞いた。
「現在、田中様のお部屋から漏水が発生しております。至急折り返しをお願いいたします。」
「現在、階下の方にまで水が流れてきております。至急折り返しをお願いいたします。また、こちらからも別途ご連絡いたします。失礼いたします。」
気が付けば私はトンネルの風景を眺めていた。真っ暗で何もないのに。ああ、いつ止まるんだろう。
この電車は快速で、しばらくトンネルに入ったまま走っている。
すぐに折り返しをしなくちゃ。散々逃げてきた現実のくせに、今度はこちらから追いかけていやがる。早く止まってくれよ。
「次は、河西、河西でございます。お降りの際は足元に十分ご注意ください。お出口は右側です。」

降りる前に着信履歴をたどる。一番最新の30分前にかかってきた番号をワンタッチする。
「もしもし、こちら」
「ああすみません、リバーハイツの田中です。」
「あ、田中さんですか。今お電話大丈夫ですか。今御在宅でしょうか?」
「今大丈夫です、これから家に戻る予定です。あ、あの、漏水の件ですよね。」
「はい、昨日の夜から発生したようで、すぐに元栓も締めさせていただきました。なので、ご使用になる際は元栓を開けてからご使用ください。」
「わかりました。」
「また、改めて水道業者をお呼びしますので、ご使用には十分ご注意ください。」

電話を切った後、無意識に改札の乗り換えをしていたことと早歩きになっている自分に驚いた。
急に鼓動が速くなってきたのを感じた。
こういう時ってどうしたらいいんだ。
今まで平和ボケのように暮らしていた私にとって、こんな現実が来るとも思わなかった。ただでさえこんな状況なのに。

仕事を辞めてからはITに行こうと決めていた。
新卒で営業を2年経験していた私は、AIウイルスが日本で本格的に受け止められる前に退職してしまった。理由は、よくある人間関係の問題によるものである。

これから自動運転、ドローンの開発により、運送・配達が自動で行われる。それも私が生きている間に。そういう風に考えると、もうこれからは「安定」という言葉なんて社会人の概念から消えるし、いつ仕事がなくなるか、転職できるのかなんて今の私にはわからない。
ただ、この日本においては、正社員として仕事を転々とする人はジョブホッパーと呼ばれるが、フリーランスが仕事を転々としても社会的には全く傷がつかない。

これはおかしいというより、判断材料の一つとして見られるのが当然だと思う。
だからこそ、これからは自分でスキルを身につけて安定を作り出す側に回りたい。色んな企業にスカウトされ、引っ張りだこになりたい。そうやって成長していくのがこれからやってくる実力社会で生き残る方法の一つであると考えたため、私はITという選択をした。

今月はプログラミング学習をいっぱいしていた。
今年から小学校では、プログラミング教育の必修化が始まった。私は小学生を甘く見ていない。むしろ、あれぐらいの年齢の子がプログラミングにハマると、大人の何倍もの柔軟性と集中力で考えるから伸びがすごい。餅みたい。
煉られる前にコロナが来た。むしろチャンスだ。もう一度企業に入る前に自分で成果物を作らないと。

気が付くと景色が開けて最寄り駅の手前まで走っていた。着いてしまう。残り1分で着くというのに、頭の中が混乱していて余計なことを考えている。今日の夢は何だったんだ。あいつは本当にハーフなのか。ピアノの練習どころではないだろう。まずは雑巾を用意して、床を拭かないと。
下の住民は大丈夫なんだろうか…。

電車のドアが開いた。
足取りが重い。20kmウォーキングを完歩した後のような重さだ。足の方向が定まらない。
改札を抜けた瞬間、不安がより一層強まった。
すれ違う人が近所の人だったらどうしよう。相手が私の顔を知っていたらどうしよう。
まるで、動物園の折の中で、肉食動物と一緒に閉じ込められた気分だ。とてもじゃないが抜け出すことなんてできない。

駅から徒歩15分もかかるのが私の家の唯一の欠点であったが、今はむしろそれ以外が欠点に見えるほど、15分の道のりに救われている自分がいる気がした。足取りは依然として重いままだ。
「このまま着かなければいいのに。」と思った瞬間、自分が今どこに行こうとしているのかがわからなくなった。
さっきまで直接帰ろうとしていた道のりを、休憩したいがために一度スーパーに入った。そして、1本の牛乳を買って帰った。

スマホを見ると、帰るまでにいつもの倍の時間がかかっていた。信号を渡って目の前の階段を上った一番右の部屋がうちだ。誰とも出会いませんように。
この家には去年の7月から住んでいる。私の念願の一人暮らしだった。初めの挨拶が肝心と言われていたので、近くのスーパーに売っている菓子折りを適当にこの棟の人数分買っていった。
「余分に1つ買って自分用にも食べたな。」

結局ピンポンを鳴らしても出たのは一人で、未だに私はその人以外と会ったことがない。都会の住民とのお付き合いなんてその程度のものなんだな。と思いながら菓子折りを全部食ってやった記憶がある。だが、今は違う。

背中にはピアノを抱えてるし、もし誰かと出くわしたらなんと言い訳をしよう。
もちろん、今まですれ違ってこなかったので、今日だけ出会うなんてことはないだろう。階段の音に気づいて誰か出てこないだろうか。
階段から入口にかけては漏水の痕跡は何もなかった。
静かに、そして駆け足気味に階段を上り、すぐにドアの中に籠ろうとしたら、ドアに張り紙が2枚貼ってあった。

「208号室の方へ この部屋から、漏水がありました。 1Fが水浸しとなったため、208号室の水道の元栓を止めさせていただきました。 AI消防署 03-2020-0101」

「管理会社へのご連絡をお願い致します。 ご連絡先 0120-111-2010 5/24 21:30」

すぐには読めなかった。また私の悪い癖だ。現実を受け止めようとしないように、文字から目を背けて視界をボヤかして読んでいた。そのときに、消防署という文字が目に入ったのは覚えている。
貼ったままにするのは恥ずかしいが、誰か来るまでは何となく剥がさないよう方が良いと思い、逃げるようにうちに入った。

「やっぱり…」
私はすぐさま玄関の左にある洗濯機を調べた。
すると、洗濯機の排水ホースが外に出てて、水が漏れているのが確認できた。
昨日、私は家を出る前に洗濯槽の掃除をしていた。初めてのことだったので、押し入れから説明書を取り出し、手順通りに進めていた。
スイッチをいれ、ついでに周りの床も掃除してから出かけようと思い、雑巾で床を拭いた。埃がすごい。

身支度も済ませ、靴を履き替えているときにふと放置してた雑巾と排水ホースに目がいった。
「こんなにホースって出てたっけ」と軽く思ったが、いつもの気にしない精神でうちを出た。
床を掃除したときにホースを触っていたのかもしれない。
とにかく現実を受け止めるまではこのホースのことで頭がいっぱいだった。

原因がわかった私は居間にまで行き、荷物と友達のピアノを降ろし、またすぐに電話をした。
「リバーハイツの田中です。漏水の原因なんですけど、排水ホースが外に飛び出ていました。おそらく私のミスによるものだと思います。なので、水道業者さんに来ていただく必要はないかと思います。」
私は、まるで刑事が捜査を行うように洗濯機の中にある水が抜けているのを確認しながら、今回の原因を自分の過失によるものだと正直に話した。こういうときはたとえ言い逃れができたとしてもそれは一生自分に付きまとうと思ったからだ。

これからどうしたらいいんだろう。
私は電話を切ってしまった。まだ他にも聞きたいことがいっぱいあったのに。心の中が黒いもやで焦がされているように胸が焼け、動揺している。
すると、またすぐに電話がかかってきた。
「水道業者さんが来るとお話しした件ですが、この件は弊社の営業の者が直接お伺いすることになりましたので、また改めてその者から電話させます。」
「わかりました。本当に申し訳ございませんでした。あの、下の階の方にご迷惑ってかかってないでしょうか。」
「現在、確認中ですので、それも合わせて担当の者から電話がいくかと思いますので。」
私はもう待つしかないという思いで電話を切った。心臓がバクバクしていた。でももうどうすることもできない。洗濯機の中にあった大量の水はどこにいった?

私はまだ何も解決していない部屋の掃除に取り掛かった。
この水はキッチン用の塩素系漂白剤と食器用洗剤を混ぜたものだ。
高いものを買うより、こういった代替えで効くものは多いとネットに書いてあった。
一人暮らしを始めたての頃は靴や用具をしまわずに、玄関や廊下に放置していた。今年の正月に大掃除してからはしまうようにしたので、被害は最小限に留められていた。
廊下は思ったほど濡れていなく、キッチンマットがよく吸収してくれていたため、私が通る時もぐしゅぐしゅ音がした。

マットを丸めて風呂場へ持っていくと、持ち上げたら水が垂れてきた。かなり吸っているし、ベタベタする。臭いはない。
マットには砂も混じっており、玄関から廊下に水が溢れてきた様子が伺える。

濡れたものを全て風呂場へ移動させ、雑巾を取り出し、まず軽く濡れているところから拭いていった。
廊下はマットのおかげで思ったほど濡れてない。これなら下にもそんなに影響はないんじゃないか。担当の方はいつ来てくれるんだろう。

廊下の一番奥には冷蔵庫がある。まだ「ゴー」というコンプレッサー音が聞こえるため、正常に動いていて安心した。
移動させてみると、一匹のGが仰向けになっていた。かなり大きい。
私は、昨日の自分に向けるかのように嘲笑った。
「へへ、塩素と食器用洗剤で溺れ死んだのか(笑)」
床を拭いていると、今度は小さなGが冷蔵庫を上っている。私は何も思うことなく、塩素系漂白剤を直接Gにかけた。ティッシュでくるみ、強く潰した。

私は急に手を洗いたくなった。また急に不安感が強くなった。「外に出なきゃ…」
今この家の水道は止められている。いや止めてくれたのだ。だが、原因が私によるものだったので、素直にそうは思えない。むしろ余計なことをしてくれたとさえ思う。元栓を閉めても止まらなかったんだ。

完全に拭き終わるまでに3時間ほどかかった。もう雑巾も全て使い切った。もう夕方である。
ここ最近ずっと雨が降っていたのに、今日からはしばらく強い日差しの晴れになるとニュースアプリで読んだ。

全て拭き終わった後のことは何も考えていなかった。心の中にはまだ黒い靄が動いているのに頭の中は本当に空っぽだった。私はまた襲ってきた不安を紛らわすかのように友達にメールをした。
独り言のように淡々とぶつけた。
こんなことがあった。どうしよう。今ネットで調べたらこんな事例もあったんだ。1000万も賠償するかもしれない。
ネットは怖い。そういった現実を簡単に突き付けてくる。それとは反対に、友達は冷静に私の話を聞いてくれた。

何をすればいいのか、今は何もできないことなどわかっているのに、その不安がこみ上げてくるたびに私はそれを友達にぶつけた。それでも一緒に調べてくれて、私を落ち着かせてくれた。

私は居間の床に寝転がり、動画配信サイトでハンバーガーマンのコントを見始めた。いつも寝る前に聞いていて、よく笑わせてもらっているが、今はただ眺めているだけだ。他に何もしたくなくなり、ただそれだけをぼんやりと見て過ごしていた。

またメールを開いてみる。返信はまだ来ていない。スマホをポケットにしまい、私は元栓を開けるために外に出ることにした。
なんと私の元栓は階下の部屋の前にある。時間はもう夜の20時である。手がかぶれたのか、赤く腫れ出していた。
鍵をゆっくり開け、なるべく音をたてないようにドアを開けた。年季が入っているため、この静かな空間ではどうしても音が鳴ってしまう。もう少し早めに出るべきだったかな。

階段を降り、警戒しながら元栓の場所へ向かった。なぜ私の部屋の前でなく、私の真下の部屋のドア前に設置されているのか。不安と怒りを覚えてしまった自分に対してまた嫌な気持ちになる。

元栓の場所を確認すると同時に、ふと玄関に並べられたものに目がいった。
そこには靴と洗濯機が外に置かれていた。
靴は4足あり、全て斜めに立てかけられていて乾かしてあった。
洗濯機はだいぶ古いものを使っていた。さらに、洗濯機の横には杖が立てかけられていた。
「ご老人だったんだ…」
と思ってしまった私は、呼び鈴に手をかけていた。
”ピンポン”
・・・何も返事がない。
ドア横の小窓が空いている。居留守を使っているのか。
しばらく立ち尽くしたが、現れる様子がない。
私はスマホのライトを照らし、床にある元栓をひねり、人通りの多い場所へ逃げるように立ち去った。

「水が全部下へ流れていったんだ。しかも杖があった。私はなんてことをしたんだ。」
ようやく現実を受け止めた気がした。
あの光景を見るまでは甘く見ていた。洗濯機の水は全部外へ流れたんだ。だから玄関と廊下、私の部屋は無事だったんだ。外へ流れた水が2階の排水溝へ流れてドバドバ階下へ流れた。その音に気付いて住民が管理会社へ電話をしたんだ。
などと、自分に一番都合のいい考え方をしていた。そんな自分が一気に嫌になった。

「おそらく下の方はホテルへ泊まっているのだろう」私は車の走る音を聞きながら意味もなく外を歩いていた。個人の過失による漏水は賠償責任がある。

今は人生で一番自分が嫌いな日だ。AIウイルスにより、現在企業は応募を停止しているところがほとんどだ。誰もがこんなに影響が長引くとは思わなかっただろう。元々決めていた自分の覚悟がすぐに揺らいだ。
「すぐに仕事を見つけなくちゃ。お金を貯めなくちゃ。」自分を安心させるようにつぶやいた。

もう一度スマホを取り出した。また友達にメールをするのだ。
自分がつぶやいたことと同じことを友達に送る。
今はもう自分の心を押しとどめることができない。誰かにこの感情を流さないと自分の心に負の感情が漏れて正常に保てなくなりそうなんだ。

よくネットには「女性はアドバイスがほしいわけじゃない。とにかく話を聞いてほしいのだ」と載っているのを見て、なるほどと昔から頷いていた。だが、今の私はどんな女性よりも女性の心で満ち溢れている。

私の不安を全て飲み込んでくれた友達が言ってくれた。
「お詫びのために菓子折りを買うべきかもね」
私はスーパーへ向かうことにした。途中で財布を持っていないことに気づいた。

今はあまり音を立てたくない。あの嫌な部屋に戻りたくない。でも、明日担当の方が来るかもしれない。そう思うと、戻るしかなかった。

戻っても部屋は同じだったいつも廊下にあるキッチンマットが風呂場で乾かされている。また現実を目にした。埃が水や掃除によってきれいになったはずの部屋なのに、私は目を背けるように財布だけを手にし、すぐに部屋から出た。

近くのスーパーへ入ったが、この時期には菓子折りが売っていないのか。2周したが探しても見当たらない。
今は人と関わりたくない。私は別のスーパーへ行くことにした。そろそろ店も閉まってしまう。

また鼓動が速くなっている。とにかく今はスーパーで菓子折りを手に入れることしか頭にない。これができないと私はどうしたら良いのかわからなくなるのだ。

次のスーパーに着いた。先ほどのスーパーよりも商品数が多い。また一周して探す。ここにもない。痺れを切らした私はサービスカウンターにいた女性店員に声をかけた。
「あ、ああの、菓子折りありますか!」
「はい?」
「菓子折り、ありますか?」
自分が思っていたより早口で舌足らずになっていた。それに気づいてまた動揺する。
「あちらにありますけど」
サービスカウンターの奥を指差された。

視線を少し横にずらすと少ないが、そういったコーナーが設けられていた。
「ぐー…」
お腹が鳴った。朝食を食べてから何時間経っていたのだろうか。
そう思いながら、菓子折りコーナーに近づき、4種類の中から最も食べやすそうで、万人に受ける味のものを手に取った。残り1つだし、ご老人でも食べれるだろう。

もう一度サービスカウンターに寄り、
「あ、ああの、これ包んでもらえますか!」
「はい?」
「これ、包んでもらえますか。」
紙袋があることを初めて知り、レジを通して包んでもらった。
最後にお礼を言い、お店を出た。

またスマホを手にする。友達から返信が来ている。
「今日はもう早く寝た方がいい。」
私はその通りにすることにした。もう21時半を回っている。
あれから何度も部屋を通っているので、少し抵抗が減ってきている。部屋に戻る前にもう一度階下のドアを見てみる。依然として小窓が空いている。

部屋に戻ると、ご飯を炊くのを忘れていることに気づいた。
本当だったら今日帰ってから真っ先に炊く作業をしようとしていた。
今日という日は今までで一番長く感じた。不安の時間が長くて密が濃いからだ。
何か食べようとしても、実際そこまでお腹が空いていない。
私は冷蔵庫にあるもので、豆腐を2丁取り、がっついてすぐ風呂に入った。

頭の中で今日聴いた「みるく」が流れてくる。
意味を知ってからはこの曲を聴かずにはいられない。
頭の中を埋め尽くすように何度も何度もヘビーローテーションした。

風呂から上がると、ドライヤーで髪を乾かし、歯を磨くといういつもの流れを経てすぐベッドについた。時間は夜22時半である。

最近ハマって読み始めた「勇気の物語」という本を手に取ってみたが、気を抜くとすぐに別の物が頭を埋め尽くし、全く本が読めなかった。

「今日はダメだ」
すぐに本を手放し、電気を消した。今日の最後にスマホを出し、動画配信サイトでまた
を流し、もう寝ようと決めた。何度も聞いていて、いつも同じ場面で笑うのに、今日は寝苦しい。
結局担当の方は今日来なかったな。濡らしてしまった部屋の人は大丈夫だろうか。
私が眠りにつけたのは1時を過ぎた頃だった。

朝7時半ちょうどに目が覚めた。今日は夢を覚えていなかった。いつも何かしらの夢を見ているが、今日は夢を見なかったのか。
今朝は今週で1番日差しが眩しい。睡眠時間は足りているはずだが、頭がボーっとする。

何やってんだろう。
これが開口一番に出た言葉だ。相変わらずお腹は空いていない。でも、さすがに何か作って食べよう。
寝ぼけながら冷凍室から鶏もも肉を出し、解答した。

今日も親子丼にしよう。私の食生活は毎日肉と卵と玉ねぎだ。これさえあればとりあえず栄養的にも問題ないだろう。日持ちもするから毎日飽きずに味変を駆使しつつ作っている。今日はシンプルにしよう。
量は半分残し、夜にもう一度食べる。これが無職の生活である。

皿を片付け、部屋を見渡すといつもより散らかっている。最近規則正しく生活をしていたはずなのに。
でも、いつも通りにすることができない。今はとにかく朝にくるであろう電話が気になって他に手が付かない。

私はスマホを横に置き、賃貸借契約書を読んだ。この家に関する契約について初めて興味がわいた。
パラパラめくっていっても文字が細かくて頭に入りづらい。自分が知りたい情報がこれだという明確な目的がないまま、とにかく今の自分に必要な情報を探していた。ふと目についたページで、
「1年未満で解約した場合、借主は違約金として賃料の2ヶ月相当額を賃主に支払わなければなりません。」
という項目があった。私がここを住み始めたのが去年の7月からである。

もうここにはいられないかもしれない。近所の人とは今まで一人しか会ったことがないが、私という存在が動かない限り近所の人はこの部屋の住人に対して不安感や憤りを感じるだろう。

すると、スマホから着信音が流れた。
「もしもし」
「もしもし、私AI管理会社営業担当の荒井と申します。こちら、田中様の携帯でよろしかったでしょうか。」
「はい、そうです。」
「先日の漏水の件でお電話いたしました。現在、状況を確認中でして、これから修繕ですとか手続きの方を進めていく予定です。」
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。あの、下の方へお詫びに行きたいんですけど、直接だとあまりよろしくないと思うので、お手数ですが、御一緒に立ち会っていただくことってできないでしょうか。」
「そうですね、でしたら31日の15時頃に私が下の階の部屋へ行く予定がありますので、そちらに同行するというのはいかがでしょうか。」
「わかりました、では31日にご同行させていただきます。すみません、よろしくお願いいたします。」
「かしこまりました。よろしくお願いいたします。ちょっと下の階の方がお忙しいようで、31日にならないと現状は何も進まない状況となっております。ですので、今現在、田中様にしていただく手続きなどは一切ございません。ご同行の件に関しては、お相手様にもお伝えさせていただきます。また日時等決まりましたら、改めてご連絡いたします。それでは、失礼いたします。」

電話を切った後、私はすぐにスマホを置く気分になれなかった。友達に今日の進捗状況を送った後、就活サイトに登録した。
まずは派遣でもいい。とにかくこの状況で正社員は厳しいだろう。もう少し落ち着いてから動こうと思ったが、もうそんなことは言ってられない。昨日から焦ってばかりだ。

友達から返信が来た。「そいえば、こういう時って保険が適用されるんじゃない?部屋契約するときに火災保険に入ったでしょ?」
そいえば、この部屋を借りる時に説明を受けてたな。「入ってて損はないですよ」
初めての一人暮らしでドキドキワクワクしていた。街でよく見かける不動産屋で色んな契約について説明を受け、訳も分からず頷いていた。それで、間髪入れずに保険の話をされたっけ。
たしか、検討するといって加入しなかったんじゃないかな。
それに、今回は漏水だ。火災じゃないし、そもそも保険が効くかなんてわからない。

調べてみよう。
そしたら、火災保険の補償範囲に水漏れという例も出てきた。
火災保険って他にも色んな補償がされているんだ。
私はスマホを手に取り、”AI管理会社 保険”と検索してみた。
すると、保険事業部というのが出てきた。

※家財保険について
AIハウスにてご紹介の保険にご加入の方に限ります。
私はこの電話の見えない線に縋る思いで電話してみた。
女性の声が出た。
「お電話ありがとうございます。AIハウス 保険事業部でございます。現在、政府による緊急事態宣言を受けて、営業時間を月曜日・火曜日・水曜日の午前10時から午後13時までに短縮しております。誠に恐れ入りますが、改めておかけ直しいただくか、ご契約いただいている保険会社のフリーダイヤルをご利用ください。」

電話を切った。まだ話を続けようとしていたが、もう十分だった。
明日もう一度電話をかけてみよう。
そう思うと、私はまた次は何をしたらいいかわからなくなっていた。
家からは出られない。冷蔵庫の中身がもう牛乳1本と卵2個と豆腐1丁しかない。
常温保存で玉ねぎがあと1個残っていたな。冷凍庫には肉がいっぱいある。
今日買い物に行くのは止めよう。
私はまた親子丼を作り、いつもの流れを辿るように過ごした。

夜、ベッドに横になり、寝る前に「勇気の物語」を読んでみた。
昨日よりは落ち着いて読むことができた。主人公の少年が異世界で奮闘し、たった1つの願いを叶えるという物語だ。
だが、ページをめくるごとに今日までのことを思い出し、何度も寝返りを打たないと読めなかった。

5/27 午前8時半
目が覚めた。気が付けば昨日は寝落ちしていた。本が床に転がっている。どこまで読んだっけ。
裏表紙が見える状態で横になっている本を拾い、ページをざっと読み返した。大体のページにしおりをはさみ、それをベッドに戻した。

歯磨きをし、朝食を作る。
玉ねぎが少し傷んでいた。
触ってみると、頭の部分が柔らかくなっていたので、そういった要らない部分はそぎ落とした。
昨日と同じ味付けにしよう。同じ分量取るようにして、残り半分はまた夜に食べよう。
食事中はいつもスマホでアニメを見ていた。
この前見ていたのは、戦国時代、ある男が一介の百姓から大名になるために様々な困難に立ち向かうという内容だ。
こういったアニメを見ていると、自分も同じ体験したかのような気持ちになる。

だが、今は見る気分になれない。ご飯を食べながら、自分に出てきたおすすめ動画をひたすらスクロールする。今日はどれも自分のおすすめにはならない。こういう時は、動物の動画を見て癒されたい。
私はミニチュアダックスフンドと検索し、実家で飼っている犬とそっくりな犬を探す。今日はこれを見よう。

食べ終わる頃には犬の動画を3本見た。少しは気持ちを紛らわせてくれた気がした。
食べ終わった皿を洗う。排水溝が詰まって徐々に水がシンクに溜まっていく。フィルターを替えなきゃ。
落ち着いたところで戻って麦茶を飲む。
そろそろ10時だ。電話をしよう。
昨日と同じようにネットで検索し、電話をかける。今度は機械的ではなく、優しい声の女性が出た。

「あの、私が、自分がどの保険に加入しているか確認したいんですけど。」
名前を聞かれ、今調べてもらっている。カタカタとキーボード音だけが耳に残る。
「えーっと、田中様。リバーハイツ208号室でよろしいですよね?」
「はい、そうです」
「えーっと、お部屋を契約する際に加入ってなさいましたか?どうも出てこないようなんですが。」
頭の毛が逆立った。そして、糸が切れ、一気に血が下へ流れ落ちた気がした。
「いえ、してなかったようですね。あの、ありがとうございました。」

電話を切り、しばらく生活音を聞いた。
冷蔵庫の音。扇風機が回る音。どこかから消防車が走っている。

もう持たない。まだ親には言っていない。言わなきゃ。
でも、今言ったら余計に心配させてしまうのでは。
家具を全部売っ払って、少しでもお金の足しにしよう。
まだ友達のピアノが壁に横たわっている。
本当だったら、あの時帰ってきて早々弾くはずだったのにな。
「7万するから壊すなよ?」今は弾けないや。

友達に送った。
「俺、保険に入ってないっぽいんだ。あと、また今週そっちに行ってもいい?ピアノを借りて申し訳ないんだけど、もう返したいんだ。」
すぐにメールを閉じた。返信も怖い。
31日のことを考える。なんて謝ろう。
また階下の杖のことを思い出す。

意識的に首を振り、記憶からそれを振り払う。
「いつも通りの日常に戻ろう」
もう私は31日を待つしかないんだ。
”ドン”
隣から物音がした。私はビクつき、咄嗟に縮こまった。
昨日からなるべく音を立てないように生活をしている。普段は結構大きな音でお笑い芸人のコントを見たり、アニメを見たりしている。音楽も聴いて、歌を歌ったりもしている。
そんな感じで、多少隣に音が漏れていても気にしないでいた。

だが、今この部屋には誰もいない。この部屋に誰かいると悟られたくない。どこに出かけるわけでもなく靴下を履き、なるべく摺り足で歩き、隣と下の部屋の人に気づかれないように生活をした。

5月31日

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